
「できない」を「できる」に変えて、前に進めていく-大日本印刷株式会社 矢田ゆかりさん-
大日本印刷株式会社(以下、DNP)のファインオプトロニクス事業部事業企画本部に所属している矢田ゆかり(やた・ゆかり)さん。社外のセミナーで「レンタル移籍」を知り、「面白そう」と、ベンチャーで働く仕組みに興味を持った。
そして、所属部門でベンチャー企業との協業に取り組んでいたこともあり、親和性を感じ、「導入してみたい」と会社に掛け合う。最初は、導入までの仕組み作りだけの予定だったが、「せっかくだから自分でレンタル移籍を体験してみたら?」と会社から提案されて、移籍することに。「自分がベンチャー企業で働くことまでは考えていなかったけれど、提案されたことで、行きたいという気持ちに気づいた」と笑顔で話す。
そんな矢田さんが移籍先として選んだ株式会社コーピーは、AI製品を開発するベンチャー企業。そこで製品化までの一連の流れを体験するうちに、次第にそれまでとらわれていた固定観念に気付いたという。1年間のレンタル移籍で、「一番大きく変わったのはマインド」という矢田さんが、どんな経験をしたのか。そして、どのようにマインドが変わったのか。詳しく話を聞いた。
―営業から企画への異動で、見失ったやりがい
矢田さんがDNPに入社したのは2003年。当時の電子デバイス事業部に配属になり、印刷技術を応用した「フォトマスク」という半導体部材の営業を担当した。
「営業として海外顧客担当をしていたのですが、もっとお客さんの近くに行きたいという思いで、台湾とシンガポールに駐在しました。技術的なことに関しては日本のメンバーに助けてもらいながら、現地のお客さんとの交渉の窓口を担当しました」
2017年に帰国してからは、同じ事業部の中で、それまで経験を積んできた営業から事業企画本部に異動。初めて携わる事業企画の仕事に、矢田さんは「戸惑いを覚えた」と話す。
「事業企画の仕事は、自分でやることを作っていくことからが仕事。でも、それをどうやったら思いつくのか、かつ、どうやったらうまく進められるのかを考えるのが本当に難しい。なので、2年くらいはモヤモヤしていました。今、振り返ってみると、『だって、まだ何も本気でやっていないじゃない』と、自分の動き方のせいだと理由が分かるんですけど」
事業企画本部は、事業部内組織の事業の創造や発展への挑戦をリードし、事業を推進していくことが求められている。さらにDNP全体に対して、外部と連携した企画の提案をしていく役割も担っていた。
DNP内のいくつもの部署、さらには社外の関係者が関わるため、矢田さんは自分一人の力ではなかなかプロジェクトが進まないもどかしさを感じていた。ずっと頑張ってきたプロジェクトが自分の手の届かないところで頓挫してしまうなど、「結果を出せず、仕事にやりがいを見つけられずにいた」という。
2020年4月に事業部内の提案制度であるCFF(Challenge FO* the Future)が立ち上がる。CFFとは、アイデアを思いついた社員が自由に提案し、挑戦できる制度のことである。ちょうどその頃、レンタル移籍について知り、「これは面白そう」と思った矢田さんはCFFへ提案する。
*FOは矢田さんの所属する事業部の名称”Fine Optronics”(ファインオプトロニクス)の頭文字
「事業部内でベンチャー企業との協業に取り組んでいたこともあって、レンタル移籍によってベンチャー企業の内情が分かるのでは、という期待がありました。CFFで企画を出したところ、実施が決定して、まずは私自身が行くことに」

―営業で培った直感を活かして
矢田さんが移籍先として選んだのは、株式会社コーピー。AIを使った製品を開発するベンチャー企業である。そこで製品開発から販売までの初期フェーズに関わることで、新規事業を立ち上げる経験をし、ノウハウを身に付けたいと考えていた。移籍前の矢田さんは、ベンチャー企業に対して、どんなイメージを持っていたのだろう。
「スーパーマンの集団のようなイメージを持っていました。自分たちのアイデア1本で勝負しながら、会社を回していく。それは大企業ではなかなか体験できないことだろうなと」
コーピーが掲げるビジョンは、「ミッションクリティカルなAIを実現する」こと。高い信頼性が要求される医療分野や、車の自動運転の分野でのシステム開発を目指している。そして、その前段階として取り組んでいるのが、製造業に向けたAI製品の開発だ。
たとえば、これまで人が行ってきた製品の外観検査を自動化したり、工場の作業工程を「見える化」したりするなど、効率化を図ることにAIの技術を活用していく。矢田さんがコーピーに移籍した2021年2月は、そうしたAI製品をゼロから生み出す段階で、完成を目指しつつ販売に向けた準備が進められていた。
社員の年齢層は20代後半~30代前半。DNPの事業企画本部では若手ともいえる立場だった矢田さんは、コーピーでは最年長に。それでもコーピーの社員たちからは、スムーズに受け入れてもらえたという。
「社歴も年齢も関係ないという雰囲気があり、若い人たちの中に混ざっての仕事でも、やりにくさは全然感じませんでした。驚いたのは、それぞれが、一人でいくつもの職種の仕事をこなしていたこと。バックオフィスの方が、財務も広報も労務管理も担当していたり、エンジニア陣が、AIモデルの開発だけでなく、アプリの作成やインターフェースの開発をしていたり。ほとんどの皆さん、コーピーが初めて働く会社で、マニュアルも研修も無しにですよ。とにかくパワーを感じました」
30人の社員のうち9割が外国人。社内はAIの専門用語と英語が飛び交っていた。顧客とエンジニアとの間に立ったやり取りでは、「専門用語が多くて何を言っているのかよく分からない」こともあったそう。矢田さんは当初、エンジニアに対して意見することに、どこか遠慮があったと振り返る。
「エンジニアが正解を持っていると思い込んでいたのでしょうね。でも、エンジニアがお客さんの意見を読み違えてしまうこともあります。そのときに間に立っている私が、『これは違うんじゃないかな』と、意見を言った方がいいと思うようになったのです。むしろ、そうして軌道修正をすることに自分の価値があると気が付きました」
矢田さんはDNPでの営業時代に、技術者と一緒に顧客のもとを訪ねていた経験から、顧客が少しでも不満を抱えているときや、ニーズに十分に応えられていないときに、「このままいくとすれ違ってしまう」と直感が働くようになったと話す。
「それは社会人経験を積んで、DNPでさまざまな問題に対処してきたからピンと来るのだと思います。その直感はコーピーでも役立ったのではないでしょうか。移籍期間中にAIについての知識が身に付いたかというと、実は今でも完全に分かっているわけではないのですが (笑)、それでも私なりの意見を言うことができるようになりました」

―「できる」を前提に攻めていく大切さ
矢田さんがコーピーで配属された部署は「事業開発」。部署とはいっても決められた仕事があるわけではなく、事業を発展させるために「何でもやる」ところ。入社してすぐ、製品がまだできていない段階でひとまず取りかかったのが、将来的に顧客になりそうな企業のピックアップだった。
「DNPでの伝手をはじめ、泥臭く、興味を持ってくれそうな企業に声をかけていきました。製品がまだできていない段階でのアプローチは、『製品ができたらよろしくお願いします』という将来に向けた接点づくりがメイン。でも、実際に製品が具体的になってくると、自分がその製品を十分理解しなければ、売る以前に話もできません。だから途端に難しくなりました」
さらに、製品化を含めた事業計画が予定通りいかない状況で、残りの移籍期間で得られるものに疑問を持つ。そこで、少なくとも製品完成までの道のりは伴走すると決め、当初の予定だった半年の移籍期間を1年に延長した。
そして移籍してから8カ月。2021年10月に開催された展示会への参加を経て、矢田さんは自身が抱いていたある思い込みに気付くことになる。
「展示会時点でできていたのは、まだα版。完成品ではない製品を売っていくことに、ものすごく抵抗がありました。このレベルで相手にしてもられるんだろうか、会社として信頼を失ってしまうんじゃないだろうか、と不安しかありませんでした」
悶々と悩んでいた矢田さんに本気で向き合ってくれたのは、コーピーの山元浩平社長だった。「僕らはベンチャーなので、できないと言ったら、そこで話が終わってしまうんです。考えこんでも状況は打開しないので、まずは『できます』『やれます』からスタートして、後でそれが真実になるようにするしかないんです。僕はずっとそうやって進んできました」と山元社長は、矢田さんに思いを伝えた。
「ベンチャーと大企業の違いを突き付けられた瞬間でしたね。けれど、まだこのときは、『頭では分かるが、行動に起こせない』という状況でした」
「完璧なものじゃないと売れない」という矢田さんの思い込みが外れかけた瞬間だった。たとえば、セールストーク時に、「導入されているのはどんな会社?」「導入の効果は?」と聞かれることがよくあるが、α版の時点では、そんなデータはほとんど無いに等しい。しかし、そこで「ありません」と言ってしまえば話は広がらず、製品も売れない。それまでの矢田さんは、何か答えなければと思いつつも、「お客さんに嘘をついてしまうのではないか」と葛藤があったという。
「でも、このままだと、私は何も前に進めない。今この環境でチャレンジしないことは損でしかないし、そういう経験をしに私はここへ来たんだ」と気持ちが切り替わった。
「新規事業では、できないことを挙げだしたらきりがない。それよりも、今できることは何なのか、何とかしてやれる方法がないかと考えるマインドがベンチャーの神髄であり、新規事業立上における大事な気構えなのだと分かりました。お客さんに『何日までに仕上げます』と言ったら、何としてでも間に合わせるために頑張る。全精力を注いで『できる』に変えていくことが、新規事業には必要なんですよね」
展示会への出展をきっかけに、一気に製品のブラッシュアップも進んだ。矢田さんにとって展示会への参加は、そうしたベンチャー企業ならではのスピード感を体感できた機会でもあった。

―メンターからのアドバイスが自身を見つめ直すきっかけに
移籍期間中の矢田さんを支えたのは、メンターの伊賀さんだった。事業開発に携わった経験があり、新規事業を進める難しさを知っている人物。コーピーでの製品開発がうまく進まずに悩んでいるとき、伊賀さんからのアドバイスで「気持ちが切り替わった」と話す。
「α版をどうやって売ったらいいか分からない。延長までして、成果も上げず、このまま帰れない…と落ち込んでいたときに、伊賀さんから『矢田さんは、新規事業の立ち上げを経験したかったんですよね。だったら既にできているんじゃないですか』と言われて。目の前の闇にとらわれすぎていた自分にハッとしました。自分一人では気付けなかったかもしれません」
今、悩んでいる過程こそが経験となり、糧になるはず。そのアドバイスが心に響いたという。矢田さんにとって伊賀さんはどんな存在だったのだろう。
「どんなことも決して否定せず、いつも応援してくれるので、大きな心の拠り所になっていましたね。“自分で挑戦”して移籍している手前、周りに不安を吐露していいレベルがよく分からない中、伊賀さんはブレない絶対的な味方という感じで、話すだけで気持ちが楽になりました」
コーピーでは、営業だけでなく採用も担当していた矢田さん。山元社長と同じ視点に立って会社のマネジメントができるようなCOOを探して、採用活動を行っていた。そこでベンチャー企業での採用の難しさを実感したという。
「英語ができて、かつAIの高度な専門知識も必要とされていたので、そもそも該当する人がなかなかいない状況でした。しかも、いい人が見つかっても、応えてもらえないこともあって…。ひたすらスカウトメールを送るなど、地道なアタックを続けました」
その地道なアタックが、移籍終了前に報われた。矢田さんがコーピーでしていた事業開発の仕事を、移籍終了後に引き継げる人物が見つかったのである。
「1年間コーピーで働いたことで思い入れもありますし、自分の後を安心して任せられる人がいたらなと。せっかく会社が製品化に向けて前進しているので、私の移籍終了後も、その勢いのまま、頑張ってほしいという思いもありました。これも成し遂げて帰りたいことの一つだったので、ぴったりの人を採用できて嬉しかったです」

―できると信じて前進させていく力
1年の移籍期間を終え、2022年2月からDNPに復帰した矢田さん。コーピーでの体験を通して、改めてDNPの良さに気付くことができたという。
「DNPにはたくさんの部署があり、人材もいる。大企業としての知名度や資金もある。これまで自分は、その貴重なリソースをちゃんと活用できていたのかなと。もしコーピーでDNPのリソースがそのまま使えたとしたら、どんなに良かっただろうと思います。 DNPの外に出たからこそ、そういう自社の良さに気づけたので、これからは、そこをどんどん活用していきたいですね」
移籍期間中は、DNPの役員や上司らが矢田さんを見守り、週報への返信や移籍経験の報告会への参加など、あたたかいフィードバックをしてくれていた。
DNPに戻った矢田さんは現在も周囲の応援のもと、以前から目標に掲げていた新規事業の立ち上げに加えて、社内でレンタル移籍を広めていくという新たな展望を描いている。
「私だけでなく、もっと多くの人にレンタル移籍を経験してほしい。きっとそれぞれの気付きがあると思うので、仲間を増やしていきたいですね。それが組織の活性化や、新規事業の種につながっていくのではないかと考えています」
DNPに復帰後、営業時代の矢田さんのこともよく知る事業企画本部の直属の上司からは「成長したね」と声をかけられた。
「迷いながら、不安もありながらの移籍だったので、そう言ってもらえて本当に嬉しかったです」
移籍前は、新しいことを始める前から「これはうまくいかないんじゃないか。やる意味がないんじゃないか」と、どこか冷静に考えてしまうところがあったと、自身を振り返る矢田さん。
「心のどこかで、『多分うまくいかない』と勝手に思いながらやっていたから、事業企画の仕事を楽しめなかったんでしょうね。結果が見えているといっても、『それは100やったこと? 1000やった? 全て出し尽くしてから言っているの?』と自分に問いかけるようになりました。新しいチャレンジを前向きに捉えられるようになったのは、私にとって大きな変化です」
これまではスーパーマンの集団のように思っていたベンチャー企業。しかし、製品化までの道のりがいかに大変か、その内情が分かったことで見方は変わった。今後、新規事業でベンチャー企業と協業するときには、「上辺だけでない話ができるはず」だと矢田さんは考えている。
「新しいチャレンジに必要なのは、『できると信じて前進させていく力』。それを持ち帰ってくることができたので、これまでの経験を活かしてDNPで挑戦していきたいです」

矢田さんは今後、仲間を巻き込みながら、”できる”を増やし、思い描いている未来を実現していくに違いない。
Fin
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協力:大日本印刷株式会社 / 株式会社コーピー
文:安藤梢
撮影:宮本七生
提供:株式会社ローンディール
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