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解像度を上げる、ってどういうこと【ぼくらは仕事で強くなる vol.16】

連載「ぼくらは仕事で強くなる」は、ローンディール 代表 原田による個人ノートです。組織やマネジメントのこと、自分自身のキャリアについてなど、日々感じていることや取り組んだことを綴っています。週1回程度更新しています。

今、目の前で起こっていることを、ちゃんと解像度を高く捉えていきたい。そんなことを、常々思っています。でも、はて解像度を上げるって、どういうことなんだろう・・・って思ったので、改めて自分なりに考えてみます。

そもそも解像度とは? ウィキペディアによると・・・

解像度(かいぞうど)とは、ビットマップ画像における画素の密度を示す数値である。すなわち、画像を表現する格子の細かさを解像度と呼び、一般に1インチをいくつに分けるかによって数字で表す

・・・ということだそうです。

それを踏まえると、「何かを経験したとして、その経験を解像度を上げて解釈したい」っていうことは、その経験に含まれている本質をしっかりと認識しておきたい、ということですね。そうすると何が良いかというと、人にちゃんと伝えられるようになるということなのだと思います。

ところが、そうなるともう一つ問題が生じます。それは、解像度を上げると、すごく個人的なことになってしまう、それゆえに共感を呼ばないというリスクです。

例えば、レンタル移籍をして経験したことを人に話そうとするときに、「○○という事件が起こって、その時に経営者が××という判断をして、それによって△△の場合にはスピードを重視することが大事だと気づいた」というストーリーがあるとします。このときに「スピードを重視することが大事」ということだけを語るとするとそれはすごく解像度が低いわけですね。表層的な話でしかないから、説得力が持てない。一方で、「○○という事件、××という判断、だからスピードが大事」という説明になってしまうと、それは個別具体的な話にしかならないから、聞いている方からすると「へー」という感想にしかならない。つまり、この「△△の場合には」というところに何を持ってっこれるかが大事ということなんでしょうね。「△△」が漠然としていてもだめ。例えば「何か新しいことをするときにはスピード感が大事」では、一気に話が漠然としてしまう。

ちょっと行き詰って、学生時代から愛読している坂口安吾の『堕落論』を開いてみました。その中に収録されている「教祖の文学」というエッセイの中でこんなことが書かれています。(ちなみに、このエッセイは小林秀雄が駅のホームから転落したことを引き合いに出してめちゃくちゃにディスるというなかなか面白い話です。笑)

ギリギリのところをはい回っている罰当たりには、ものの必然などは一向に見えないけれども、自分だけのものが見える。自分だけのものが見えるから、それがまた万人のものとなる。芸術とはそういうものだ。

つまり、自分の目で見ることなんですね。

自分の目で見て捉えた個別性と、それが共感を呼ぶかどうかという普遍性と、その両方を獲得するってことが「解像度を上げる」っていうことなんでしょうね。いやはや、これは大変なことですね。でも、それが見えたときの感動は、きっと何物にも代えがたいよなぁ。そう思って、改めて、よく見るというところから始めてみようと思います。


▼ 過去のノートは以下より

【レンタル移籍とは?】

大手企業の社員が、一定期間ベンチャー企業で事業開発などの取り組みを行う、株式会社ローンディールが提供するプログラム。ベンチャー企業の現場で新しい価値を創りだす実践的な経験を通じて、イノベーションを起こせる人材・組織に変革を起こせる次世代リーダーを育成することを目的に行われている。2015年のサービス開始以降、計41社115名のレンタル移籍が行なわれている(※2020年10月1日実績)。→詳しくはこちら


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